テニスについて
  1−硬式テニスとは
  
2−軟式(ソフト)テニスとは

 一般的に「テニス」と言えば「硬式テニス」の事を指します。
 よく耳にする“シャラポワ”選手も、漫画の“テニスの王子様”も、硬式のテニスです。

■使用する用具
 ラケット
  棒状のグリップの先が輪になっており、そこにストリングが張られている。
  長さ
69センチ、重さは240380グラム程度。
  材質はグラスファイバー、カーボン、アルミ、スチール、木など。


 ボール
  白または黄色、表面はフェルトで覆われている。
  直径
6.356.67センチメートル、重さ56.758.5グラム。

 コート
  サーフェスはグラス(芝)、クレー(土)、アンツーカー、ハード(コンクリート、ゴム)、
  グラスサンド(砂入り人工芝)など。縦
23.77メートル、横10.97メートルで、
  中央に高さ
107センチメートルのネットが張られている。


■硬式テニスの歴史
 複数の人間が
1つの球を互いに打ち合うという形態の球技の起源は、
 
紀元前にまで遡ることが出来る。
 エジプトでは宗教的な行為のひとつとしてこのような球技が行われていた。
 
紀元前15世紀の壁画で球を打ち合う人々の姿が描かれたものが発見されている。

 現在のテニスの直接の祖先に当たる球技は、
 8世紀ごろにフランスで発生し、当初はラ・ソーユ
(La Soule)
 後にフランス貴族の遊戯として定着をはじめた16世紀以降には
 ジュ・ド・ポーム
(Jeu de paume) と呼ばれた。
 フランスでこの球技が盛んになった理由としては、ローマ時代の直接の影響よりも、

 8世紀から11世紀まで、イベリア半島から南フランスまで進出していた
 イスラム教徒(ウマイヤ朝)が、エジプト時代と同様に、宗教的行為として行っていたものに、
 キリスト教の僧侶が興味を持ち模倣したことからはじまったと言われている。


 昔のテニスのコートは僧院にあり、四方を壁と傾斜した天井に囲まれていて、
 現代のローンテニスのコートより大きかった。
 
18世紀から19世紀にかけてヨーロッパの貴族の間で大流行し、
 多くのコートが建造されたが、現存するものは少ない。

 中世では、現代のようなラケットは使わず、手のひらでボールを打ち合っていた。
 手袋を使うこともある。ボールは皮製で現代のものよりはるかに重く、弾力性は少ない。
 サーブは一方の側からのみ行われ、傾斜した屋根を転がるように打ち上げる。
 レシーブ側のプレイヤーは、落ちてきたボールが二度バウンドする前に打ち返す。
 失敗したプレイヤーはポイントを失う。
 ゲームの最初の第一球の打ち込みが「サーブ」と呼ばれるのは、中世においては
 レシーバーにあたる人間の従者が
 第一球を屋根に打ち上げる役目を行っていたことに起源がある。


 現代の多くのスポーツとは異なり、テニスの歴史はごく浅い。
 
187312月、ウォルター・クロプトン・ウイングフィールド少佐は
 イギリス・ウェールズの
en:Nantclywdにある自分の所有地でガーデンパーティーを開いた。
 ウイングフィールド少佐は
 そこに招かれた客を楽しませる余興としてローンテニスを考案した。
 ローンテニスは、
12世紀のフランスで考案され
 フランス革命まで貴族たちがプレイしていたテニスを基にしている。
 ウイングフィールド少佐の考案したテニスのコートは、
 中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型をしていた。
 
1874年、ウイングフィールド少佐はテニスに商用としての
 可能性を見て特許を取得したが商業的には成功しなかった。しかし、
 イギリスやアメリカで有閑階級を中心に急速に広まった。


 
1881年には競技としてテニスをする望みがテニス・クラブの設立に結びついた。
 
1877年ロンドンで、アマチュアの大会として
 
第1回目のウィンブルドン選手権が開催された。
 
1881年には、アメリカ国立ローンテニス協会(今のアメリカ・テニス協会)が、
 ルールを標準化し、かつ競技を組織化した。
 全米のシングルス選手権(現在の全米オープン)は、
 ニューポート、ロードアイランド州で
1881年に最初に開催された。
 米国の全国女性のシングルス選手権は、
1887年に最初に開催された。
 デビスカップはナショナルチームの間で
1900年から毎年開催されている。


 日本では
、1878年にアメリカのリーランドが
 文部省の体操伝習所で紹介したものが最初とされる。
 用具の調達が困難であったことから、
 
ゴムボールを使う日本の独自の軟式テニスを考案し、独自の発展を遂げた。
 その軟式テニスで育った選手(
熊谷一弥清水善造佐藤次郎等)がテニスに転向
 欧州、米国を転戦、
その独特のテニスで大活躍し世界を驚かした。

 清水
はウインブルドンチャレンジラウンド決勝に進出。
 熊谷
がおもに米国で活躍、
 クレーコートで無類の強さを発揮、クレーでは世界一といわれた。

 
佐藤は当時の世界ランキングで3位まで昇りつめたが、
 
19344月に遠征中にマラッカ海峡で投身自殺をする。

 1970年代には日本でもプロ選手が登場、
 そのプロ第一号(戦後初のトーナメントプロ)である
 
神和住純(父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦、
 
おもにWCTサーキットで活躍。ウインブルドンチャンピオンの
 スタン・スミスを2度に渡り破るなどの活躍をみせた。
それ以後、
 男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少ない。

 近年は松岡修造の健闘があった。アベレージこそ低かったものの、
 ピーク時は限りなく高く、時にトップランカーと互角に渡り合い、そして倒した。
 
1995年ウインブルドンシングルスでのベスト8は大健闘といっていいだろう。

 
女子では1975年のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、
 沢松和子とアン清村のペアが初優勝したことが日本テニス界の起爆剤となり、
 世界挑戦を目指すプロ選手が増えてきた。
 
 
1980年代に活躍した井上悦子はその先駆者的な存在となる。
 やがて、
1989年にプロ転向した伊達公子が、1990年代に目覚ましい大活躍を遂げ、
 
日本人の女子テニス選手として初の世界ランキングトップ10選手に成長した。

 同時期には沢松奈生子、雉子牟田直子、長塚京子、神尾米、遠藤愛、佐伯美穂、
 吉田由佳、杉山愛等がつぎつぎと
TOP100入りし、日本女子テニスは全盛を築く。
 平木理化のミックスでのグランドスラムタイトル獲得もあった。
 しかし伊達が
1996年に引退した後、他の選手の勢いも消え、杉山愛、
 伊達の後輩にあたる浅越しのぶの活躍に頼りきりの状態が長らく続いている。
 その浅越しのぶは
2006年を最後に引退を表明。
 森上亜希子、小畑沙織、中村藍子、森田あゆみなどの今後の活躍が望まれている。


■四大大会

 ・全豪オープン (1月)
 ・
全仏オープン (5月 - 6月)
 ・
ウィンブルドン (6月 - 7月)
 ・
全米オープン (8月 - 9月)

 四大大会を
1年間ですべて優勝することをグランドスラムという。
 これを夏季オリンピックの開催年(オリンピアード)に達成し、
 同時に五輪の金メダルを獲得することを「ゴールデン・スラム」という。
 (
1988年に当時19歳のシュテフィ・グラフが達成した偉業から、この新語が作られた。)

■近年の傾向
 
19997月より週刊少年ジャンプ(集英社刊)にて連載中の、
 許斐剛による漫画作品「テニスの王子様」によって
 「エースをねらえ!」以来の若い世代にテニスブームが起きている。






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